高千穂ガイドと巡る・神話と自然の旅は、第7弾「岡山」となります。わーい!わーい!
あちこちに「晴れの国・岡山」というキャッチフレーズ見ます。そして今日は晴れ!
さて、ここ岡山県の元は「吉備国」。勢力分散か、勢力争いで分かれたのかで、最終的に「備後、備中、備前、美作」と4つの国に分かれました。
今回はその4つの国を巡ります。
①2月9日(木)
まず、岡山に来たら腰に着けておかなかいけないのはこれでしょ!
いろんな味がありましたが、シャインマスカット、チョコ、きなこの3種をチョイス。
鬼ノ城
総社市にある鬼ノ城へ。
この鬼ノ城は、築城年は推定7世紀後半頃、廃城年不明。とある研究の結果、当時の古代山城としてはレベルの高い城壁の石塁・土塁、城門や水門が備わっていた形跡があり、出土遺物なども発見されています。鬼ノ城について、いくつかの伝説や物語が地元で残っていますが、すべて仮説レベルで実はその歴史はいまだ謎のままなのです。
現在の仮説は主に下記の2種
①大和朝廷が国の防衛のため築いた。
②渡来人・温羅(うら)氏が日本にやってきて富を得て築いた。
うーんどちらもあり得ますよねー。
全長2.8kmの登頂&城壁1周ウォーキングへ。
温羅(うら)氏とは?
そもそも温羅(ウラ)氏自体実在かどうかも定かではありません。一説では百済からの渡来人で、現・鬼ヶ城に住み、がっつり富を築き(鉄の技術を大陸からもってきた)、強い腕力、性格は凶悪、女や子供をさらい放題に暴れていて、まさに「鬼」イメージそのもの的な豪族化になっていて、吉備国の人々は恐れおののいて都へ出向いて助けを求めましたという話が有力説。
(また、吉備国の人たちや阿曽彦と仲良かった説もあります。)
さて、日本書紀や古事記には下記の神話記述があります。
第10代崇神天皇が第7代孝霊天皇の皇子・五十狭芹彦(いさせりひこ)と稚武彦(わかたけひこ)の兄弟と家来たちを大和国から吉備国へ温羅退治に派遣。
※崇神天皇の祖父の兄弟を派遣って!
いやいや、高齢者は労りましょうよと思ってしまいましたが、なんと五十狭芹彦は280歳まで生きたと言われていますので、後期高齢者になってから200歳以上生きてたってすごい。
その五十狭芹彦と温羅氏の戦いの物語が伝承地や景勝地となって残っています。
イサセリ VS ウラ
・イサセリは得意の剛弓でウラを打つが、ウラは山ほどの岩を次々と投げてきて矢をことどこく落と
す。矢や岩が落ちた地は、現在の「矢喰の宮神社」。
・戦法を変えたイサセリは2本の矢を同時に打つ。1本はウラが投げた岩にもう1本はウラの眼に命
中。眼から流れ出た血で真っ赤になった川の名が「血吸川」。
・ウラは咄嗟に雉に姿を変え飛び立つが、イサセリは鷹に姿を変え追いかけます。
・追いつかれるとウラは今度は鯉に姿を変え川へ逃げるが、イサセリは鵜に姿を変え鯉を捕らえまし
た。それを称えて「鯉喰神社」があります。
・イサセリはウラの首を切り落とし討伐に成功しました。
この五十狭芹彦が渡来人豪族・ウラ氏を退治し吉備国を平定したことにより五十狭芹彦は吉備国の王となり別名:吉備津彦(きびつひこ)となりました。
歴史は勝者が作り上げ、話に膨らみや架空が加わることもあるので敗れた温羅氏を「鬼」と呼んだとでしょうかねー。
本当の妖怪の鬼ではなく「大和朝廷(時の政権)に敵対する地方豪族や反勢力」を「鬼」と呼んでいる伝承は他でもいくつかありますね。
てなわけで、この吉備津彦と温羅の戦いは、物語の「桃太郎」のモデルになったと言われています。
お供に猿、雉、犬はいたのか?
調べました。
①方位的な鬼門の対極の「陽」に位置する 未、申、酉、戌の方位の力を利用した説!
②なんと!家来に猿女さん、鳥飼さん、犬養さんという人がいた説!
③禁忌思想と佛教思想により、犬・猿・鶏を殺したり食べてはならない令が出た時代の名残り説。
どれも「ふーん、へぇー、なるほどねー。」
②2月10日(金)
今日は広島県福山市(備後国)にやって来ました。備後国一之宮は2社あります。
備後国・国一之宮 吉備津神社
平安時代に備中吉備津神社より御分霊を賜り創建。
吉備国が分裂して、吉備国を代表する「吉備津神社」は備中国となったため、備後国にも吉備津神を祀ったということですね。
主祭神:大吉備津彦命(おお きびつひこの みこと)/五十狭芹彦
五十狭芹彦は、吉備臣の祖とされています。
備後国・国一之宮 素盞嗚神社(すさのお)
入り口に由来が書かれていて、
①蘇民将来伝説のゆかりの地。②祇園祭の発祥地。③茅の輪ぐぐり発祥の地。④京都八坂神社の祖。
どれもすごいなー!
主祭神:素盞嗚命(スサノオ)。 天照大御神の弟神/大国主神の義父
備後風土記の蘇民将来伝説では、素盞嗚神(牛頭天王)は「悪いことを払う神様」と言われていますので、「疫病退散」のご利益もありそうですね。
岡山へ戻ります。
備中・松山城(高梁城)
日本現存天守12城の1つで、山城としては唯一とのこと。
鎌倉時代に砦が造られたのが始まりで、ここは毛利氏の東方進出の拠点となり、またもし「本能寺の変」が起きていなければ、秀吉は高松城の後ここに攻めていたかなー。
小雨の中、ふいご峠駐車場から小松山城へ登ります。
攻められた際、勢いよく登って来れないようにと作られたであろう1段が高めか広めの石段を一歩一歩登りました。
この山城を鎧つけて駆け上がってもバテバテだろうから、攻めるのは至難の技だなー。
城内はパネルがあり、大石内蔵助の「無血開城」や板倉氏、閑谷学校など城や城主、藩の歴史んど学べました。
猫城主さんじゅーろーもいました。
城主の往路を、ふいご峠まで下山。城巡りというより軽い登山でした(笑)
雨でガスも濃く、雲海に浮かぶ「天空の山城」としての備中松山城は見れないので、向かいの山の展望台へは行かず、連泊のサンロード吉備へ。
日帰り温泉としても賑わっていました。
1日目と2日目で料理を変えてくれました。岡本さんありがとうございます。
あさりとホタテの釜飯なども美味しかったです。
③2月11日(土)
日本の建国記念日です。2683年!
楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)
弥生時代後期の双方中円形墳丘墓。
全国(九州や出雲、大和)に同様また似た墳丘墓が見つかっているが、その中でも最大規模だと。
鉄剣や首飾り、ガラス玉なども出土しておりと当時のそれなりの部落の長や豪族王の墓と推測。
古墳時代の前であり古墳時代の始まりでもありますね。
備中国・吉備津神社
吉備国(備前・備中・備後)の総鎮守・総氏神。
備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社に分霊後、備中の国一之宮となる。
社殿は、吉備中山の山の麓です。
吉備津神社の案内。
主祭神:大吉備津彦命(おお きびつひこの みこと)/五十狭芹彦
相殿神:五十狭芹彦の兄弟姉妹、五十狭芹彦の父など
現在の本殿は600年前に再建されたもの。
比翼入母屋造で本殿と拝殿が一体化
千木は、外削ぎ、勝男木は2本。
380mも続くまっすぐな廻廊です。
その途中に御釜殿への分岐があります。
この御釜殿にて、鳴釜神事が行われます。
由来は、イサセリとウラの戦いの後に物語は続きます。
さてさて、イサセリに切られたウラですが、死んだかと思いきやウラの首には生気が宿っていたのか眼を見開いてはうねり声をあげ続け生首を動物に食べさせてガイコツになってもうねり声は鳴り止まず。そしてこの御釜殿の地中に首を埋めたが声は鳴り止まなかったとのこと。五十狭芹彦は困り果てていたら夢にウラが現れ「我が妻の阿曽媛に神饌(しんせん)を炊かせよ」と告げたそうな。
お告げ通りに阿曽媛を呼び神事を行うとうねり声は神事の時以外は止まったとさ。
この鳴釜神事を行って来ました!
中に入ると、釜から湯気が立ち上がっています。しばらく待つと神官がやってきて祝詞を口上します。そして阿曽女・巫女が蒸篭にお米を入れシャカシャカ振り混ぜるとうなる音?声?が聞こえました。この鳴る音の強弱・長短などで吉凶を占う神事なのです。
終わっても神官や巫女は何も言いません。各自で吉凶を判断するのです。
私には、音は大きくそして長く聞こえました。大吉?
この不思議さと感動をぜひみなさんも体験してみてください。
備前国・吉備津彦神社
吉備中山の山の反対側にある備前・国一之宮の吉備津彦神社。
備前国には国一之宮が2社あります。
主祭神:大吉備津彦命(おお きびつひこの みこと)/五十狭芹彦
相殿神:五十狭芹彦の兄弟姉妹、五十狭芹彦の父など
ここでは、大吉備津彦=桃太郎と語られています。
桃太郎お守りや桃の絵馬もありました。
立派な拝殿
拝殿
本殿は、流造。
千木は外削ぎ、勝男木は2本。
桃太郎像みっけ!
備前国・石上布都魂神社(いそのかみ ふつみたま じんじゃ)
もう一つの備前国・国一之宮。
赤磐市の山の上にある神社です。
難読漢字ですね。
駐車場から急な登り道を上がると山の中腹に神社がありました。
主祭神は素盞嗚命です。
神社名の「布都魂(ふつみたま)・聖剣」とは、イザナギがカグツチを斬った剣、また素盞嗚がヤマタノオロチを退治した剣、神武天皇が熊野にて授かった剣時に使った「十握剣(とつかのつるぎ)」の別名。
御朱印やお守りなどは、自動販売機で授与!!
本殿:流れ造
千木:外削ぎ、勝男木は2本。
さらにここから「山頂の本宮(奥宮)まで500m」
ここからは参道というより登山道。木の根の道を上り詰めると、本宮と書かれた鳥居がありました。
山頂に奥の院がありました。山頂は磐座的な聖域となっており「禁足地」と書かれていました。
元々はこの布都魂(聖剣)がここに奉納されていたらしく、その聖剣はその後奈良県大和の石上神宮へ奉納されたとのこと。
また、千葉の下総国一之宮・香取神宮の主祭神も聖剣の神様・経津主大神(ふつぬし)です。
漢字は違うけど読みは一緒です。
「フツ」とは「斬る擬音」だとか。
美作国・中山神社
最後は、備前国から分離した美作国へ。
津山にある神社です。
ここも吉備津彦系かと思いきや・・・・。
主祭神:鏡作神(かがみつくりのかみ)
相殿神:雨糠戸神(あめのぬかどのかみ)、石凝姥神(いしこりどめのかみ)
鏡作りの神?? いやー記紀に出てこない神様だけどどなた?
神社縁由や記述を調べてみると、
707年に社殿を創建し、「吉備津神社」を勧請(分霊)。鏡作神を奉斎。
明治4年に金山彦命(かなやまひこのみこと)を御祭神とする。金山彦の神は、イザナミから生まれた神様。
昭和21年に主祭神を「鏡作神」に改めたと記されている。
三種の神器の1つ八咫鏡を作ったのが石凝姥神(いしこりどめ)と言われています。その石凝姥神は主祭神ではなく相殿神として祀られているので、その神業を鏡作部の祖神として称えた名?
ちなみに、天糠戸神(あめのぬかど)は石凝姥神の父。
他の書き込みで、
鏡 = ひっくり返る = ウラ返り = 温羅返り?
ん?謎解き?
ここでまさかの鬼のモデルとされた温羅氏が出てくるとは!
温羅氏は製鉄の技術、そして鏡作りの技術も伝えたとかいう話。
温羅氏を鏡づくりの祖として「鏡作神」という呼び名にして祀っている説。
宮司さんにお会いできなかったので、真実はわかりません。
拝殿
入母屋造
千木:外削ぎ、勝男木は5本。
すべてに神が宿り「八百万の神」に守られている日本ということで、今回の旅は終わります。
次は、どこの神様に会いに行こうかなー。
高千穂ガイド